読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

マグロの鳴き声Ver3.2

セレッソ大阪とか日常を書くチラ裏です。

東日本大震災から6年

あの日、自分に起きたことを書いておこうかな。

6年も経つと流石に忘れ気味。

 その時間は銀座の某オフィスビルにいた。

Tさんと仕事の話をしていた。Tさんは立っていて、俺は椅子を回して振り向きながらあれこれと、少し難しい話をしていたように思う。

そのせいか、揺れに気付いた時は既に大きめの地震になっていた。

しかしTさんは熱を帯びた語気で仕事の話を止めない。まあ、そういう人ではあったが、俺は流石に遮ろうかと思っていると、揺れは更に大きくなりTさんは喋るのを止めて

「ちょ、ちょっと、そろそろマズいレベルですかね…」

と身構えた。

俺は机に向き直り「それにしても長いな」と思いながらPCが倒れないように押さえた。

揺れは更に大きくなり、縦に何度か突き上げが起こり、ただごとでない気配を察した。

「どこか遠くで大災害が起こっている」

何故か(銀座の揺れが大きい割に震源が近い感じがなかった)そう思った。揺れが収まるころ、たっぷり2、3分はあったか。誰かがネットを見て叫んだ。

「宮城で震度7だって!」

その言葉で直感したのは「あ、津波が来る」だった。

仕事の息抜き(あくまで息抜き)にWikipediaを見るのがトレンドだったのだが、何故かその頃は「津波」そして「原子力災害」の事をよく読んでた。

虫が知らせたわけではないだろうけど、今でも不思議に思う。だからこその直感だった。

嫁に大丈夫かとメールを打つ。しかし届いてる気配は感じない。電話をかけてみるが案の定繋がらない。

改めてメールに現状分かっていることを書き込み送る。

「東北で大地震津波が来る。海から離れて。長女を迎えに行くのは危ないから出来ることなら行かないで。水が出ているうちに風呂桶に水を貯めて…」

長女は当時幼稚園に通っていたが、海が見える場所に建っていた。流石に津波注意報が出れば逃げると思うので、出来ることなら嫁と次女は高台(というほどではないが)にある家にいてほしかった。

しかし後で聞いた話になるが、嫁は次女を連れて友達と海岸沿いのレストランでお茶をしていたらしい。

停電で手動となったレジを通り、電話もネットも繋がらなくなった中、海岸通を長女を迎えに車を走らせてたらしい。

信号も消え、交通整理の警官がちらほら見え始める中、長女の幼稚園につくとグラウンドにシートを広げて待機していたという。

あの災害のあとは流石に我々も幼稚園も意識を変えて、高台に逃げる訓練をするようになったが今考えても本当に津波が低くて(影響の出ないでレベルで)良かったとつくづく思う。

さて俺は焦って連絡しても届かない、この調子では電車も道路も動かないだろう。オフィスでやり過ごす覚悟を決めた。

オフィスの階段の踊り場の壁が崩れているのを見たが、それ以外はダメージもなく、水もお湯も出ていた。それを確認するとコンビニへ向かった。

コンビニはまだ物資も豊富だった。俺と同じように思ったサラリーマンがちらほら程度だったのでカップ麺を3つ、万が一水が切れても大丈夫なように水とスナック菓子をかごに入れ会計を済ませた。確か1000円程度の買い物だ。

このあと、コンビニから商品がごっそり消えることになる。決断が早くて助かった。

戻った頃には仕事にならないレベルの大災害であることが認識され始めていて、近くの人や足のある人は撤退を開始していた。

携帯電話を片手に、福島出身のKさんが不安な顔をしていた。

「家族と連絡が…」

兎に角電話が繋がらない。「オフィスの固定電話も『その方面は繋がりにくくなっています』を繰り返すばかりで」

コンビニに行く途中にある公衆電話に列が出来ているのを思い出した。みんな必死に連絡を取ろうとしているが一向に繋がる気配がない。

俺は幸い、オフィスの電気とネット環境がダメージを受けていなかった。更にTwitterがほぼリアルタイムに更新できたのと、TBSが災害の状況をノンストップでストリーミング放送を始めてくれた。

嫁とはTwitterで連絡が取れた。ただ嫁は帰宅しても停電中、電波は通話も通信も非常に不安定で車に取り付けたACコンバータで電源を取りつつ必死に更新していたらしい。

Twitterの更新、そしてストリーミング放送は、思った以上の東北の被災状況を流し続けていた。

東京も神奈川も、それなりに被害が出ており、間もなく首都圏近郊のJR、私鉄全線の運転取りやめのニュースが流れた。

それでも自宅を目指す人がオフィスをどんどん出ていった。だいぶ寂しくなってきて、買ってきたラーメンを食べようかなと思ったとき、Mさんが

「新幹線が動いているってよ」

と教えてくれた。

正直驚いた。日本の技術の粋を集めた鉄道とはいえ、こんな時も運転できるんだ…。

そしてそれを使えば小田原近くの嫁の実家に行くことが出来るかもしれない。オフィスの電話を取り上げ、実家に電話をした。意外とすんなり義父が出てくれた。

これから新幹線で小田原へ行くので迎えに来て欲しい旨を伝えると、快諾してくれたので水だけ抱えて銀座のオフィスから東京駅を目指して歩き始めた。

経路はいわゆる帰宅難民で溢れていた。しかしその顔には笑顔も見え、ぶっちゃけ余裕はあったように思う。別に不謹慎と言うつもりはないけど、まあ緊張感はねえよな、と感じた。

東北の津波の映像を見ているととても浮かれた感じは出せなかったし、千葉のコンビナート火災もあり、ここは被災地なんじゃないのかな、という思いが一層そういう感情に拍車をかけたのかもしれない。

新幹線の切符をカードで買い(現金使うのは怖かったので助かった)、もっときついかと思ったが結構すんなり乗り込むことも出来た。しかしこだま号はなかなか発車せず、気付けば自由席は満席となって立ち乗りの人が出始めた。

ようやく発車すると、品川、新横浜でも降りる人はいたが、小田原はそこと比較にならないほどの人が降りた。そして駅のロータリーはバス、タクシー、迎えの車を待つ人でごった返していた。

これは嫁の両親に会うのも一苦労だな…と思った矢先に向かいから義母が歩いてくるのが見えた。これは本当にラッキーだったし、心底ホッとした。

義父の運転する自家用車に乗せていただき、1号線は混んでると踏んで峠道から実家に向かった。新幹線の車窓から都心に向かう迎えの車で渋滞が起きているのを見たからだ。

同じように考えた車で峠道も混んでいた。車中で嫁の実家の様子を聞いたが、やはり結構揺れたそうだ。ただ住んでる場所が高台であること、強固な岩盤の上にあることで何の被害もなく、水ガス電気とライフラインに影響はなかった。

未だ停電の続いている自宅より絶対マシだろうと、俺はこの自家用車を借り自宅に家族と猫を迎えに行く決意をした。

両親に実家で降りてもらうとそのまま東名高速を目指した。実家から自宅までR134を行けばいいのだが、工程の8割海沿いはリスキーだと考えた。

幸い高速道路は全線でガラガラ(規制がかかっていたかも。それが夜解除になっていたような気が)で拍子抜けするほどすんなり自宅へたどり着くことが出来た。ただ気を付けていないと、途中の信号が消えていたりした。

ようやく、というほどの時間は経ってなかったのかもしれないが家族に会えた。本当に、本当に安堵の瞬間だった。

自宅は停電しており、とりあえず発泡スチロールの容器に冷凍食品を詰め込んで車に積んだ…と同時に電気が復旧。浄化槽のブロワーのモーターが回る音で気付いた。冷凍食品は冷蔵庫に戻したが、家族はやはり実家へ避難しよう、と着替えなどの荷物をありったけ用意し移動を開始した。

海沿いではなく来た時と同じルートを選択し、無事に避難完了。風呂にも入り、布団に潜ることが出来た。

小さい子供もいたため、俺が帰れない、あるいは電気が止まったままなどの状況だと非常に不安だったと思うが、タイミングもそうだが本当に環境に助けられた。

テレビからは相変わらず悲惨な状況が伝わってくる。仙台にいたことのある実家の両親も心配そうに見つめている。

状況は大変だがこの程度で済んで本当に良かったなと、思いながら眠りにつく…

そして翌日、原発事故の報が舞い込んできて「この先どうなるんだろう」と思ったのはまた別の話にしようと思う。

あの時いろいろな状況を見て、実家のテレビを安穏と見て、俺が出来ることってボランティア活動だけでなく、本当に粛々と日々活動をしていくこと。自分の活動をまず元に戻していくことだと思い、今も実践を続けている。

被災地には凄くいっぱいの悲しみが、それこそゴロゴロと転がっていて、俺にはどれも拾い上げることが出来ないなという無力感もある。

けど、だからこそ、俺が笑えるようになろうと。俺の周りから取り戻そうと。そう思ったのだ。

あれから6年。まだまだ悲しみ深い記憶であるけども、出来るだけ多くの人の思いが届きますよう。そして多くの思いに寄り添えますよう。

お祈り申し上げます。